【推古天皇】聖徳太子と時代を作り上げたアジアで最初の女帝!

推古天皇

 

推古天皇

 

【推古天皇】聖徳太子と時代を作り上げたアジアで最初の女帝!

才色兼備だったらしいよ

 

推古天皇は554年から628年まで即位した日本の第33代天皇です。

女性君主は当時の東アジアでも今まで見られなかったんです。

諱(いみな)は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で、日本書紀では豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)と称されています。

日本書紀では容姿端麗で頭も良く、政治力も優れていたと記録されています。

 

第29代欽明天皇の皇女で、第30代敏達(びだつ)天皇は異母兄であり夫です。

ん?兄で夫?

そうなんです。古代天皇家の大きな特徴として、強い閉鎖性があげられます。

 

古代王権は近親婚によって血の結束力を高めようとしていたのです。

皇族男性は外部から妃を迎えることはありましたが、皇族女性はほぼ皇族男性と婚姻関係を結んでいました。

 

外国の場合、外交の手段として敵対する国との政略結婚は古くからありました。

しかし日本は島国であり、積極的に海外の王権との交流もとっていませんでした。

むしろ結婚相手を限定していくことで権力を強めていったのです。

 

この流れが終わるきっかけとなったのは、藤原氏の台頭です。

藤原不比等が天武天皇の妃であった五百重姫と結婚し、子供を授かったのです。

その後、皇族女性との結婚を藤原氏は進めていきます。

 

さて、話を戻しまして、その夫である敏達天皇が崩御します。この時推古天皇は34歳。

敏達天皇との間には、聖徳太子の妃である菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)や竹田皇子、小墾田皇女など2男5女を授かっています。

 

その後即位した用明天皇も2年後に崩御。次の天皇の座をめぐり穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を推す蘇我馬子の間で戦いが起きます。

結果は蘇我氏の勝利。それにより崇峻天皇が即位することとなりました。

しかしなんと、今後は崇峻天皇と蘇我馬子が揉めるのです。崇峻天皇は馬子の指示で暗殺されるのでした。

 

荒れてるなあ。「日本の歴史」を読んでいても、この時代はこんな争いがずっと続いています。正直読んでて疲れました。

その後に即位するのが額田部皇女です。39歳で推古天皇として史上初の女性の大王となったのです。

 

推古天皇の政治力がすごい

推古天皇は即位してすぐ、甥の厩戸皇子を皇太子とし、側近として一緒に政治を始めます。

ここから推古天皇の絶妙なバランス感覚が発揮されていきます。

厩戸皇子と蘇我馬子のパワーバランスを保ちつつ、豪族の反感を買わないように政治を遂行していくのです。

馬子に対しても、そのバランスを崩すような行為に対してはビシッと戒めています。

【聖徳太子】謎多き伝説の賢人は実は存在していなかったかも?!

 

推古天皇の時代に制定されたものとしては、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使などがあげられます。

細かくは諸説あるのですが、とりあえず。

 

冠位十二階は603年に制定され、648年まで続きました。

日本で初めての官位制であり、これにより人材登用の制度がスタートします。

大徳から小智までの12段階によって順位付けされ、それぞれ冠の色で見分けるようになっています。

人材登用だけでなく、諸外国に「日本もこんな制度を取り入れて進んでいるんだぞ」というアピールも兼ねていたそうです。

 

遣隋使として有名な小野妹子は607年に隋に派遣されました。

それまでも中国に使節は派遣されていましたが、初めて日本の独立を強調する目的での使節でした。

小野妹子の冠位は大礼でした。

 

なんでも隋の皇帝煬帝からの返書を帰りに無くしたそうです。どんなドジ…。

本来なら流刑モノの大失敗ですが、推古天皇の恩赦によって不問となりました。

その後妹子は大徳にまで出世しています。よかったねえ。

 

十七条憲法は604年、推古天皇12年に作られたと日本書紀には書かれています。

内容としては、現代の憲法のようなものではなく、貴族や官僚たちの道徳的な教えが記載されたものとなっています。

礼の大切さを説いていたり、仏・法・僧の三宝を大切にしましょうであったり、勧善懲悪について古来からの良い規範であるといった内容で書かれています。

 

622年に聖徳太子は49歳で死去します。その4年後には馬子も死去。

推古天皇は75歳という当時ではかなり長寿な年齢で崩御されました。

陵は大阪府の太子町にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されています。

ここは子の竹田皇子も埋葬されています。

 

奈良と推古天皇

法隆寺

法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒を祈願して建立しようとしたお寺です。

推古天皇と聖徳太子がその意思を継ぎ607年に完成させました。

 

豊浦宮跡

明日香村にある豊浦宮跡は推古天皇が即位した宮殿跡です。

日本で最初か2番目くらいに建立されたお寺だそうです。

その後衰退し、江戸時代には同じ場所に向原寺が建立されました。

 

横大路

橿原市にある横大路は、推古天皇が開通させた道です。

この道が完成したことで、飛鳥の宮から難波までの道がつながり、外交の使者の行き来も活発になったのです。

現在では今井町のレトロな街並みに貢献しております。

 

ソラニ満ツの「推古天皇」

推古天皇Tシャツ

もちどのセンター街で場所を借りて初めて出店した時、第一号で売れたのがこのTシャツなので、めちゃめちゃ思い入れがあります。

買ってくれたのは、中国人観光客の女の子でした。

これといった会話もなくあっさり買ってくれたので、嬉しいの前にびっくりしました笑。

 

お会計している時が一番嬉しさが込み上げてきましたね。

一緒に記念写真撮ったらよかったなあ。

 

【聖徳太子】謎多き伝説の賢人は実は存在していなかったかも?!

聖徳太子

 

聖徳太子

 

【聖徳太子】謎多き賢人は実は存在していなかったかも?!

名前すらも謎の人物

 

飛鳥時代の一番の有名人といえば、もちろん聖徳太子でしょう。

なんと言っても昭和5年から紙幣に7度も登場しているのです。

 

そんな聖徳太子ですが、お札に使われていた肖像画も実は「これって聖徳太子じゃないんじゃね?」と言われています。

活躍した時代が時代なだけに非常に謎多き人物です。

神格化されていて数々の伝説があり、逆に近年の研究では、聖徳太子は架空の人物ではないか?という説すらもあります。

僕自身、聖徳太子推しなので解明するのもツライところ…。

 

果たして聖徳太子とはどのような人物であったのでしょうか?

調べてみたので是非コラムを読んでみてくださいね。

 

まず「聖徳太子」という名前は本名ではありません。

「聖徳太子」とは後に付けられた尊称、もしくは諡(おくりな)です。

諡とは、帝王や貴人などの死後に奉る、生前の功績に基づく名前のことです。

 

本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)」と言われています。

しかし、これも同時代の文献によるものではありません。

古事記」では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」とされ、「日本書紀」では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」という早口言葉のような呼び名で書かれています。

 

また、「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られます。

「日本書紀」では太子一族が住んでいた斑鳩宮を「上宮」と呼んでいたり、子供である山背大兄王を「上宮王」としています。

 

「聖徳太子」という呼び名は死後129年後に編纂された「懐風藻」が最初であるとされています。

「厩戸王」という名前も、懐風藻にて初登場します。

 

平安時代の史書ではいずれも「聖徳太子」で「厩戸」の表記はありません。

この時代にはすでに聖徳太子の呼び方が一般的になってて、人々に愛されていたことがわかりますね。

 

聖徳太子の功績

 

僕が子供の頃、歴史で習った聖徳太子像は、推古天皇の元で政治を行なったという人物でした。

遣隋使を派遣し、仏教を取り入れ、冠位十二階や十七条憲法を定めるなどの功績があったと言われています。

さて、これらの話の真相はどうなのでしょう?

これらの膨大な実績を果たして一人の人物がすべて成せるのか?

 

まず「厩戸皇子」が「十七条憲法」や「冠位十二階」に中心人物として確実に関わっていたという資料が見つかっていません。

ガックリ…。

もちろん、厩戸皇子が当時の政治の中枢にいたことは確実です。

なので全く無関係であったとは思えません。

 

大山誠一さん著「<聖徳太子>の誕生」という本で見ますと。

中国の史料である「魏国伝」によると、600年に第一回の遣隋使が派遣されたました。

そこの記述では、当時の日本ではまだ文字や記録は日常的な政治では使用されていなかったそうです。

 

そんな文化レベルであったのに、本当に604年に十七条憲法は作られたのか?

聖徳太子がいかに天才だったとはいえ、ちょっと無理じゃね?というのが主張されています。

仮に作れたとしても、これを理解できる役人がどれだけいるのか?

なので、この日本書紀に記載されている「604年」を疑う説があるのです。

 

じゃあ「冠位十二階」はどうだったの??

これは当時あったそうです。

中国でも同じような制度があったので取り入れたと思われます。

しかし、これは新しい人材登用というより、対外的な先進国アピールの色が強かったそうです。

しかし、これまた厩戸皇子が積極的に関わっていたという証拠が見つかっていません。

 

なので、これらの功績は「聖徳太子」の功績ではなく、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子などの共同体制による運営だという見方が今は強いそうです。

ただ、全部が事実でなかったとしても、先述の通り、死後まもなく神格化されているところから、厩戸皇子が優秀な政治家であったことは間違いないでしょう。

 

奈良と聖徳太子

法隆寺

 

奈良で聖徳太子ゆかりの場所といえば、まずは「法隆寺」です。

西院伽藍はなんと現存する世界最古の木造建築なんです。

聖徳太子の時代の伽藍は一度焼失しており、現存のものは7世紀末に建てられたものです。

 

法隆寺はもちろん国宝で、世界遺産にも登録されています。

建造物だけでなく、仏像や工芸品も貴重なものが多数残されています。

 

法隆寺はJR奈良駅から電車で3駅目。そこからはバスで行くことが出来ます。

ならまち観光のついでにはちょっと遠いけど、是非行ってみてください。

 

法隆寺金堂にある薬師如来像の背面には、用明天皇が果たせなかった薬師像を作るという願いを、後に推古天皇と聖徳太子が実現させたことが書かれています。

聖徳太子非自在論を唱える大山先生も、厩戸皇子が法隆寺を建立したことまでは否定していません。

 

達磨寺

もう一箇所が王寺町にある達磨寺です。

聖徳太子のペットである「雪丸」が葬られているのです。

元旦に雪丸が吠えるとその年は豊作になるんで、豊作祈願で奉られているのです。

 

お察しの通り、聖徳太子の愛犬らしく雪丸にもトンデモ伝説が多く残されています。

人の言葉を理解し、お経まで読めたのです。

最期は達磨大師のお墓の北東に葬って欲しいとの遺言を残しています。

 

現代の雪丸は王子町のマスコットキャラにもなっています。

 

橘寺

橘寺は明日香村にある太子建立7ケ寺のひとつです。

聖徳太子生誕の地であると言われています。

 

明日香村はならまちからはかなり遠く、ついでに見ていくにはなかなかツライところ。

どうせなら、明日香村には多くの遺跡が残されているので一日かけて楽しんでください。

明日香村の観光地はこちら

 

ソラニ満ツの「聖徳太子」

 

聖徳太子Tシャツ

なにげにこのTシャツが一番人気だったりします。

生地は濃い目のネイビーです。

 

シンプルなデザインなのでいろんな服と合わせやすいと思います。

うちの看板Tシャツのひとつですね。

 

以上が聖徳太子についてまとめたコラムになります。

今、奈良国立博物館では「聖徳太子と法隆寺」展が開催されています。

行こうと思っているので、見てきたらまた追記しますね。